百済って?
今から千五百年ぐらい前、朝鮮半島には北のほうに「高句麗」(こうくり)、東の方に「新羅」(しらぎ)、西のほうに「百済」(くだら)、南の方に「伽耶連合」(かや)といわれる国々がありました。百済は西の方、今のソウル・京畿道(キョンギド)・忠清北道(チュンチョンプクド)・忠清南道(チュンチョンナムド)・全羅北道(チョルラプクド)・全羅南道(チョルラナムド)に広がる国でした。
国の名前を漢字で書けば「百済」と書きます。韓国では「ペクチェ」と、韓国の音読みで発音しますが、昔、まだ百済という国が存在していた頃は「くだら」に近い発音していたのです。日本も韓国も、一番古い歴史書は、まだ、仮名やハングルがなかったから、当時の中国で書かれていた通りの漢字で書いています。しかし、固有の地名や人名を漢字で表すには、いろんな工夫が必要です。
『日本書紀』では、中国で書かれている「百済」という文字に、「久太良」と漢字で読み方を書いてあるのです。そういうわけで、朝鮮半島にあった国の名前なのに、韓国より日本の方が、当時のままの正しい呼び方をしているのです。面白いですね。
百済第一の都=漢城百済(ソウル)
韓国の歴史書『三国史記』には、「百済」の国は、「高句麗」(こうくり)の始祖である朱蒙(しゅも)東明王の次男、温昨(おんそ)が紀元前十八年に建国したと書かれています。
現在のソウル、漢江流域の慰礼城(ゐれいじょう)でした。この慰礼城の位置についてはいくつかの説があり、特定されていません。実質的には第八代とされている古巳(こみ)王(AD234〜286)の代になって、古代国家の体系が形成されたようです。
|
|
そうして、近肖古(きんしょうこ)王(346ー375)代、近仇首(きんくしゅ)王(375ー384)代に、最も勢力を伸ばし、北に向かっては平壌城を攻撃して、高句麗の故国原王を戦死させ、南に向かっては全南海岸地方まで領土を広げました。この時期、日本との交流も本格化し、七支刀(しちしとう)を贈ったりしています。
この七支刀は、現在、国宝に指定され、石上(いそのかみ)神宮にあります。

◆次回より、本編(古代編)が始まります。
お楽しみください。 |