一世代前のコリアタウンを撮影し続けたカメラマンがいる。当時、ここは猪飼野と呼ばれ、その地名が行政によって消滅(1973年)し、今年でちょうど30年。30数年の時を経て陽の目をみた写真集『猪飼野―追憶の1960年代』にこめられた思いに迫る。
人物紹介、冒頭を飾っていただくのは、フリーカメラマン。゙ 智鉉(チョ・ジヒョン)さんです。


◆【猪飼野の写真集―1965〜1970年】
▲写真集「猪飼野」
リーカメラマンになりたての27歳から猪飼野の写真撮影をはじめられたということですが、そのきっかけについて教えて下さい。

メラマンになってまず、自分のふるさとを第一のテーマとして記録したいと思ったからです。猪飼野は自分にとって10〜20才まで暮らした日本での出発点であった。特にその当時は、1960年代の高度経済成長の時代で、東京オリンピックや万国博覧会などいろんな地域が大きく変化していた。当然、猪飼野も変化していくだろう、今記録しておかないといけないという認識をもっていたことも、きっかけとなりました。

影中、大変ご苦労されたということですが印象深いエピソードがあれば教えて下さい。

965年に「韓日基本条約」が締結。猪飼野においても南北の政治的対立が一層激化した。一般庶民の日常生活にも浸透。隣同士での会話もなくなり路地を歩いていても殺伐とした空気が漂っていた。そんな中、撮影していると、北か南かどちらだと組織のスパイと誤解されたり、フィルムをよこせとつめよられたりした。その当時、他にも日本人カメラマンがいたようであったが最後まで続けられたのは、やはりここが自分のふるさとであったからだと思います。
機―『劇団民藝と瀧澤修の舞台』写真展この写
▲平野川に架かる猪飼野橋を背に
 被写体となる
真展が大きな転機となったとお聞きしたのですが。

973年10月8日から1週間、大阪梅田の東 宝画廊で写真展を開催。私の得意分野であった舞台写真を写真に関してプロはだしの瀧澤修先生に評価され、『劇団民藝』の関西での公演舞台を約4週間撮影した。この写真展の大成功をきっかけに、瀧澤修先生の写真を見にきた多彩な職種の人たちと出会い、すばらしい知識、人格的影響をうけ、個人的成長のきっかけとなった。更に、この出会いの中で部落写真も撮る事が出来るようになり、自分にとってはものすごく大きな転機となった。人生は、全て出会いから始まる。赤ん坊も両親との出会いから始まるように、一つの大きな大学であり、仕事をするのも、出してくれるのも人間であるから、出会い抜きにして今の自分の人生は考えられない。

自身の日本人観を根底からくつがえされたことがあるとお聞きしましたが。

時、日本人に対していいイメージはありませんでした。就職しょうとしたら国籍でダメ。プラスになるようなことは何もなかったし、日本人から受けた恩恵もなかった。そんな中、当時、大阪大学医学部部長の伴忠庫先生からパーティーの写真を撮ってくれないかと依頼された。その時、涙がでるほど嬉しく、好意に対して有難いと思った。何より自分を認めてくれたという自信にもなった。更に朝日新聞の元社会部部長で『部落開放』の初代編集長であった林神一先生がいた。猪飼野の写真をお見せした時、「こんな写真が撮れたら部落の写真も撮れる。一度部落を撮ってみないか」と言われた。この出会いがなかったら、おそらく部落の写真は撮れなかったと思う。私は技術も大事だが人間関係が大事であると思っている。人間は本を読み、人と対話もし、一生勉強しなければいけないと思う。
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