◆朝鮮人の海外移住
明治維新後、日本はイギリス・アメリカ・ロシアの列強国家がアジア各地に侵略し植民地支配したのに続いて軍備を強化、隣の朝鮮に進出し、日本の軍隊を常駐させるようになった。これが原因となって清(中国)と争い、日清戦争が起こり、南満州の利権をめぐって日露戦争が起こった。さらに勢いに乗じた日本は1910年(明治43年)に日韓併合を行い植民地支配体制を完成させた。この後、韓国王は退位し、朝鮮政府は廃され、朝鮮総督府による支配となった。
朝鮮総督府は土地所有を明らかにするために土地調査事業を実施した。しかし当時、朝鮮には登録していない農民が殆どで、多くの農民が土地を奪われ、零細農民や小作人が増加した。そうしたことで生活破綻した農民が海外に移住した。どれだけ多くの人が移住したか資料がないので不明であるが、現在海外在住の韓国・朝鮮人の人口は、中国東北地方200万人、日本64万人、ソ連55万人、アメリカ210万人という数で推測することができる。日本の場合は、日本が朝鮮を植民地支配したので、日本国内に生活の安定を求めて移住しはじめたのである。
◆猪飼野(生野)になぜ在日朝鮮人が多く在住するようになったのか?
第一次世界大戦による好況のなかで人手不足を補うために、また日本人の賃金の半分以下で雇用できる低賃金労働力として、多くの企業が朝鮮へ行き労働者の募集をしていた。その先端を切ったのが1911年(明治44年)西成区の摂津紡績木津川工場であった。それから次々と大阪の紡績工場や造船所などいろいろなところが朝鮮へいって盛んに人夫募集を行った。猪飼野における朝鮮(韓国)人の在住は工場労働者の初期集落に始まったと考えられる。その後1919年(大正8年)3月平野川開削工事が開始された。こちらの方が月給が高いというので工事労働者が移ってきて、点在していた初期の朝鮮集落が大きくなっていった。
さらに1923年(大正12年)3月済州島ー大阪間に君が代丸が運行(定期航路)するようになってさらに移住者が増加した。この航路が開かれたため大阪は日本のどの都市よりも済州島に近くなった。済州島出身者を雇う零細工場が猪飼野にあり、風俗習慣も同じで、助け合いの風習が強いことが済州島出身者を猪飼野に定住させることになったと考えられている。 |
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◆次回から、当時のことを知るコリアタウンの長老にお話を聞き、検証して行く本編が始まります。 |