日本の産業革命の時代であった明治20〜30年代。大阪市でも、港湾部を中心に、紡績・造船といった大規模な近代工業生産が盛んになる。当時の工業は石炭を燃料とする蒸気機関が主動力であり、そのため煙突が林立し、かつて「水の都」と言われていた大阪が「煙の都」と言われるようになる。
 そのころ猪飼野村(当時の地名)の所属する東成郡にも、産業革命の波が押し寄せ、小企業、零細企業を中心に活況を呈するようになる。しかし、この頃、在日朝鮮人(当時の呼称)の移住はまだ始まっていなかった。『日本帝国年鑑』によると、明治42年(1909)日本全体の在日朝鮮人の人口は僅か790人であり、また、この数のほとんどが留学生であった。
 多数の移住が始まったのは、大正4年(1915)頃であり、大正12年(1923)の「第一君が代丸」就航を契機に年間で万を超える数の移住者が海を渡って来るようになった。その移住先第1位が現大阪市生野区である。すなわち現在のコリアタウン周辺に集まって来たのである。本稿「コリアタウンヒストリー」では当時から現在まで、時代の流れの中でコリアタウンがどのように形成されていったのか、また、在日といわれるコリアン達がどのように日本の風土に馴染んでいったのかと云う部分にスポットをあて、当時を知る人達に話を聞きレポートしていきます。

【第1回-明治〜大正の時代背景を検証する】

◆朝鮮人の海外移住
 明治維新後、日本はイギリス・アメリカ・ロシアの列強国家がアジア各地に侵略し植民地支配したのに続いて軍備を強化、隣の朝鮮に進出し、日本の軍隊を常駐させるようになった。これが原因となって清(中国)と争い、日清戦争が起こり、南満州の利権をめぐって日露戦争が起こった。さらに勢いに乗じた日本は1910年(明治43年)に日韓併合を行い植民地支配体制を完成させた。この後、韓国王は退位し、朝鮮政府は廃され、朝鮮総督府による支配となった。

 朝鮮総督府は土地所有を明らかにするために土地調査事業を実施した。しかし当時、朝鮮には登録していない農民が殆どで、多くの農民が土地を奪われ、零細農民や小作人が増加した。そうしたことで生活破綻した農民が海外に移住した。どれだけ多くの人が移住したか資料がないので不明であるが、現在海外在住の韓国・朝鮮人の人口は、中国東北地方200万人、日本64万人、ソ連55万人、アメリカ210万人という数で推測することができる。日本の場合は、日本が朝鮮を植民地支配したので、日本国内に生活の安定を求めて移住しはじめたのである。


◆猪飼野(生野)になぜ在日朝鮮人が多く在住するようになったのか?
 第一次世界大戦による好況のなかで人手不足を補うために、また日本人の賃金の半分以下で雇用できる低賃金労働力として、多くの企業が朝鮮へ行き労働者の募集をしていた。その先端を切ったのが1911年(明治44年)西成区の摂津紡績木津川工場であった。それから次々と大阪の紡績工場や造船所などいろいろなところが朝鮮へいって盛んに人夫募集を行った。猪飼野における朝鮮(韓国)人の在住は工場労働者の初期集落に始まったと考えられる。その後1919年(大正8年)3月平野川開削工事が開始された。こちらの方が月給が高いというので工事労働者が移ってきて、点在していた初期の朝鮮集落が大きくなっていった。
さらに1923年(大正12年)3月済州島ー大阪間に君が代丸が運行(定期航路)するようになってさらに移住者が増加した。この航路が開かれたため大阪は日本のどの都市よりも済州島に近くなった。済州島出身者を雇う零細工場が猪飼野にあり、風俗習慣も同じで、助け合いの風習が強いことが済州島出身者を猪飼野に定住させることになったと考えられている。
 





◆次回から、当時のことを知るコリアタウンの長老にお話を聞き、検証して行く本編が始まります。
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